奴隷人生からの脱却

このブログは趣味であって、外部からの称賛や評価、収益を目的としていない。

ここは洞窟の奥に潜む湖のような場所である。水面を覗き込むと俺がこっちを見ている。俺は俺自身として生きているか。偽り、欺瞞、ごまかし、嘘にまみれて生きてはいないか。俺自身の本来性を成就するために。俺自身の呼び声を聞き届けるために。俺はブログを書く。プライベートではなく、誰かに向けて書く。どこかで誰かが共鳴してくれることを少しだけ期待して。

マイケル・ジャクソンの Xscape という曲がある。俺はいま、この日常空間から逃れでて、俺の真理を手に入れたいと心の底から願っている。そして、さらに先の世界で目指すものがある・・・。

俺はいかに生きるべきか。いかに生きたいのか。やりたくないことに従事する人生は虚しい。死の間際に後悔なんてしたくない。 

人生が有限であるという前提を採用した場合、この一瞬一瞬が無限の価値を持つ。現在は過去になり、過去は無限の彼方に過ぎ去っていく。

この限りある人生において、俺は俺自身の本来的な人生を成就したい。

俺には大志がある。その一方で、素朴な願いもある。両者の真実性を吟味したとき、最後の判断を下すのは自分自身である。

視界の上端に太陽の眩しさを感じながら歩くように、俺は、大志を抱きつつ、素朴な願いの実現に向かって行動を開始する。

 

具体的な話をする。大きな志については、とりあえず言及しない。素朴な願いの実現について書く。

自分が何をしたいか、ということを素直に、素朴に、直感的に思い巡らしたとき、自らの技術によって稼ぎ、学び、進歩する生活を思い浮かべる。あるいは、「稼ぐ」という点を問題にしたくない。古代ギリシアの人々が喧々諤々と議論を重ねて学問上の基盤を築き上げることができたのは、一説によると奴隷のおかげで労働時間がスキップできたからであるらしい。たしかプラトンは、金のために働き時間を浪費するよりも、知恵を学びゆく人生の方が優れている、とどこかで言っていた。俺は金を稼ぐために生きるのではなく、大志を実現するために生きたい。

パトロンをつけたり、宝くじにあたったりしなければ、何かしらの方法で稼がなければ、快適な環境で暮らすことはできない。

結論からいって俺はサラリーマンとして生きて死ぬのだけは御免だ。とにかくいやなのだ。理由は述べるまでもない。一言でいうと、自分より視点の低い人間のために従事して時間を無駄にしたくない。あるいは、この人の元でだったら働きたい、と思える人がいるかもしれない。それも結局は、「かもしれない」なので、現状、サラリーマンとして生きて死ぬのだけは意地でも嫌だ。

俺は新しい道を探し出して行動を開始しなければいけない。

いかなる行動を開始するのか。

まず、「独力で稼ぐ能力」を身につけなければならない。これは必須事項である。性に合わないサラリーマン人生からおさらばするため。我慢を重ねる人生から抜け出すためである。

誰に命令されるでもなく、自ら判断し、行動し、賃金ではなく、売り上げから利益を得ていく生活スタイルに根本的な変更を起こしていく。

まずは奴隷人生から脱却しなければいけない。これを第一次最優先事項とみなす。

その先に見据えている世界はある。

なによりまず、自らの技術で金を手に入れるシステムを手に入れなければ。

そのための情報集取に努め、実践を行え。

ファーストステップ

日曜日である。

毎週がシャトルランみたいなもので、月曜から金曜にかけて向こう岸までたどり着き、土日に一休みをしたのなら、また月曜から金曜にかけて元いた岸まで戻りゆく。

このままでは同じことの繰り返しである。

 

両の手のひらいっぱいに山と積んであった砂金が指の隙間からさらさらとこぼれ落ちるみたいに、限りある時間は静かに少しづつ失われてゆく。

この世に生まれ落ちた我が魂は、儚い我が身を使い古して、電源が切れて再起動しなくなるその日に向かって、夢のような世俗の日々をスタコラと走り抜けてゆく。

 

そんなこんなでダイエットすることにした。

 

遠い目をしつつ海岸線を眺めて世の無情を思いながらぼーっとしているのもまた一興である。 波の音を聞きながら砂浜に寝そべって星空を見やり、新たな思いに胸を焦がすのも一興である。

 

ところで、「あーあ」というため息で人の世の不思議をかこち、寝転がっているだけでは、外見上ただの豚と変わらんな。ブヒブヒ言いながら飯を探してそこらをクンクン嗅ぎ回っている豚と、手持ち無沙汰でスマホを持ちながら Youtube のおもしろ動画を探し回っている人間と、大差ないじゃないか。

 

一般的サラリーマンの平均的日常のサイクルから転がり出て、新たなるアトラクションに向かうべく志を新たにしたつもりだった。

みんなでコーヒーカップに乗り込みワーワー言いながらグルグル回って、ゲラゲラ笑って、はい、めでたし、だったところを、一人カップから飛び降りて、手を交差しながら中止だ中止と叫んでみたのだった。

夜空にひかる星を指差して、ファイトー!いっぱーつ!と叫んでみたのはいいとして、はて次に何をしたらいいんだっけと途方に暮れていたのだった。

 

そんなこんなでダイエットすることにした。詳細はtodoでいいや。

いいかげん目覚めなさい(天海祐希の声)

ベートーヴェンを聴きながら、ブログを書きはじめる。ソニーのヘッドホンから流れてくるのは、インマゼール指揮、アニマ・エテルナ演奏のシンフォニー第6番田園である。

大学時代のひと頃、Apple Music でクラシックを聴き漁っていたことがあり、ネットで名盤紹介を見つけては検索して聴き比べていた。特にモーツァルトを聴き比べていて、その次に聴き比べていたのがベートーヴェンである。

側頭葉に格納された大学時代の風景には、淡いモヤがかかっている。ランチでにぎわう戸山キャンパスの文カフェでは、フレッシュな若者がより集まって華やかな青春の香りを散らしていた。「大学時代」を思い起こすと、喉の奥に魚の骨がひっかかるような曰く言い難い気持ちになる。

シンフォニーの景色は勇ましい。リズムの区切りが明快で世界の輪郭がはっきりしている。電撃をくぐりぬけて大海原を突き進む船に乗っているみたいだ。天から降り注ぐ光が一面の田園を祝福しているみたいだ。

大学時代は理想的なキャンパス・ライフを謳歌できなかった。ひとりで鬱々と授業を受けて、バイトもせずに、ダラダラと本を読んで、ブログを書いていた。恋人のひとりも出来ずに寂しく戸山公園を散歩していた。こう書くとただの「ぼっち」であるが、それでも真剣に生きているつもりだった。ハイデガーやヤスパースの著作を読み、自らの「本来性」や「実存」に耳を傾けようとしていた。毎日 iPhone にメモを書いて己の胸に問いかけていた。何をなすべきなのか? 結論を出して実行する技術とパワーは足りなかったかもしれない。でも真剣だった。

あれから数年が経つ。わたしは真剣に生きているだろうか? 人の役に立つことをしているだろうか? ゾンビのように同じことを繰り返して何となく生きていないか?

日常に取り込まれてウトウトしている魂を揺り起こすために、ブログを立ち上げた。

明日になれば、「いつもの」日常が再起動する。会社組織の催眠術にかかってはいけない。ゼンマイ人形みたいな大人になっちゃだめだ。わたしの日々を取り戻すんだ。